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木曽路の旅 |
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□ '06/05/下 木曽路の旅 〜奈良井・妻籠・馬籠の宿場まちへ) 木曽路は、江戸時代以前の街道や宿場町が比較的良く保存されていて、 特に、重要伝統的建造物群保存地区に指定された奈良井、妻籠、馬籠の宿が有名となっています。 今まで、この一帯は、車で何回も素通りはしていたのですが、旅の木曽路は、国道から外れているので、今回が初めての訪問です。 天気にも恵まれ、「木曽路」の宿場まちをゆっくり歩き、その古の宿場町の雰囲気が素敵で、新鮮でした。 像を見て、碑文「あヽ飛騨が見える」を見て、大竹忍の映画「あヽ野麦峠」が思い出され、泣かされました。 ただ、顔が可愛くないので、ちと残念でした。^^; 木祖村から国道19号線に入り、トンネルを抜けて、奈良井宿へ到着しました。 国道沿いに駐車し、「木曽の大橋」を渡ると、そこは、古の宿場町です。16世紀中頃には、もう宿の役割を果たしていたとかで、規模の大きな宿場町でした。 江戸幕府によって整備された宿場時代の町並みが、幸か不幸か、明治時代に国道から外れたため、現在までほぼ完全に残り、昔の宿場町の面影を残しているのだとか。 漫ろ歩きをし、木曽路の雰囲気を楽しみました。お店の主人と話し合うのも、ここの人情が分かり面白いです。 木曽檜の箸を買いました。 ![]() 奈良井宿の外れ、あぶら屋さんに泊まりました。 民宿風で、外観、宿泊部屋は往時の雰囲気でした。 しかし、宿の内部は、風呂、トイレも、当然ながら現代のものでした。 致し方ありませんが、残念でした! 翌日、木曽路の国道19号線を南下し、妻籠宿へ向かいました。途中、木曽川の源流地が木祖村にあることを知りました。 ◆妻籠宿 長野県木曽郡南木曽町 町中は車の乗り入れ禁止で、入れず、駐車場は町外れにあり、かなり歩かないと町並みに辿り着かずです。笑 車がない分、スッキリしていい感じで、賛成です。 ここも、よく保存され、落ち着いた佇まいの町並みに、昔の木曽路の宿場町の情緒がありました。妻籠は中世から宿として利用され、木曽路から飯田へ抜ける追分になっていたとの事で、とても歴史が感じられる景観です。 ![]() ![]() 妻籠宿本陣は、自由に内部を見学する事が出来ます。 大名が滞在した「御上殿」の間は、座敷が一段高くなっていて、夫婦で笑ってしまいました。黒光りする柱や壁は、歴史を感じます。 枡形の町並みの中は、古い建物が残されていて、常夜燈や水場も宿場の面影を偲ばせています。高札場も復元され、江戸時代の民家(熊谷家)も残っていて、タイムスリップした様です。 馬籠宿へ向かいました。国道はここから大きく西側にそれ、木曽路の妻籠宿から馬籠峠へ向かう道は、ひっそりとした趣のある道となっています。峠を越えると、既に岐阜県となっていました。^^ ◆馬籠宿 岐阜県中津川市馬籠 文豪「島崎藤村」の生地 馬籠宿は、木曽11宿の最南端、美濃との国境にあり、 木曽の入口として、山の斜面に沿って開けた「坂のある宿場」が特徴となっています。 宿内は車の進入を禁止し、歴史的建造物を保存して、観光地としてよく整備されて、 見所も多く、また文豪の生地でもあり、木曽路の旅では欠かせないスポットです。 高札場や馬籠本陣跡は復元され、旧態を保っている民家も多く、往時の面影を残しており、美しさとロマンチックさが漂っています。 ![]() 宿中の端から端まで、 何回も上ったり、下りたりして、「きれいね!」「きれいだね」の言葉が何回となく、夫婦で行き来しました。 ![]() ![]() 外人さんが沢山いました。 何を求めてでしょうか? 外国にも藤村の名が通って いるからなのでしょう、きっと。 昼食に、きのこそばを食べました。田舎風でしたが、本格的な信州そばではなく、ちと期待外れで残念でした。木曽路のそばが食べたかったです! やはりと言うべきか、藤村記念館が多くの観光客を集めています。 「藤村記念館」へ入ると、蔵書、原稿、挿絵の原画、遺愛品、周辺資料等が展示されていました。ビデオで藤村の生い立ちを解説していました。藤村は、島崎家の復興の期待を一身に受けて、子供の頃に、東京に遊学したのだとか。 双葉の頃からその才能が認められていたんですネ。 木曽路が観光地として脚光を浴び出したのは、高度経済成長期に入った頃とか。 1978年(昭和53年)から2年がかりで街道の修景美化が図られ、道路沿いにある電柱、張り巡らされていた電線を撤去して、裏手に電柱を移転し、引き込み線も各戸の裏側から配線し、テレビアンテナや自動販売機にも配慮が加えられたんだとか。 その成果は上がっていて、舗道、道端周辺も綺麗に整えられており、拍手ものです。 明治の文豪、島崎藤村は、自らの故郷を舞台にした歴史小説 「夜明け前」の冒頭で、 『木曾路(きそじ)はすべて山の中である。あるところは岨(そば)づたいに行く崖(がけ)の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。』と書いています。 全くその通りで、関東から来た者には、この山の中で、どうやって生活していたものか、と思う位、山また山でした。 馬籠の近くに昼神温泉があり、そこに泊まり、露天風呂を堪能しました。 翌日、国道153号線で飯田市を通り、中央道で帰りました。 2泊3日の、心温まる郷愁の「木曽路の旅」でした。 岐阜県中津川市に組み入れられてしまいました。 田中康夫知事は反対しましたが、その気持ちには頷けます。でも、『信州の藤村』は、今後は、どう言う事になるのでしょうか? 樹齢数百年、永い年輪を重ねた杉の大樹が続く並木道。幾多の旅人の足跡を刻んでいます。始め「中仙道」と書かれていましたが、享保元年(1716)に、「東の海沿いの道を東海道と称した様に、本州の中央を通る道なので、 「中山道」と書き改めるべきである」として、以後「中山道」と書かれ、「なかせんどう」と読ませたのだとか。 中山道は東海道と共に江戸と京都を結ぶ大動脈ですが、遠回りでした。 しかし、東海道は大井川の川留め、桑名一宮間の船旅の難が伴ったのに対し、中山道の旅にはこうした惧れがなかった事から、京から江戸に向かう姫君たちは中山道を選び、この故中山道は姫街道とも言われた、とかです。 木曽路とは、いうまでもなく中山道の一部に過ぎないのですが、「木曽路」が中山道の代名詞となって来たのは、 街道を象徴する風土と景観が、木曽にあったと言う事なのでしょう。それ故か、木曽路には、江戸時代の安藤広重と渓斎英泉作の浮世絵「木曽街道六拾九次」があります。 帰路の途中、水引の郷である飯田市の「水引博物館」に立ち寄りました。 水引による素敵な作品、工芸品が見られ、ぜひ立ち寄りたいスポットです。 当日、中国人観光客が来てて、実演していました。 龍を買っていったのでは、きっと。 ・木曽ネット 木曽路の観光総合案内所 ・馬籠観光協会のホームページ |
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